小説・集団ストーカー「D氏への手紙」(新設)

この日本で行われている信じがたい犯罪・・・その実態を書き続けます。(最新の記事はこちらを御訪問ください。)

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(90) 原発事故の避難所で

D 様


稲穂が、黄色味を帯びて来ました。
その上を湿った風が流れ、微かに揺らいでいます。

蝉の声は真夏と変わらずも、
秋が静かに歩を進めているのです。

涼しさを望んだ日々が、少しづつ遠のいていきます。
寒さを嘆く日々は、もう駆け足なのでしょうか・・・ 。



さて、D様 ー 。
前回の続きを書こうと思います。

私と夫は、KW村の「IWの里」に避難しました。
KW村に入ってすぐ、この施設に誘導されたのです。
(KW村のあらゆる公共施設が、近隣からの避難者に開放されたのでした。)


私が避難所に入って間もなく感じたのは、そこに漂う陰うつな空気でした・・・。

不安げに言葉を交す老人たち、膝を抱えて黙り込む若者、赤ん坊を抱いた女性、毛布をかぶって寝ている人 、虚ろな目で周りを見渡している中年夫婦、嬌声を上げて走り回る子供たち ー 。

日常を断ち切られ・・・普段なら、一堂に会すことなどない人々が、
重苦しい空気の中で寄り集っていたのです。

そして、D様 ー 。
私は、避難者に混じる異質な者の存在に気付きました。
避難者と同様に防寒衣をまとい、荷物を持ち、敷き毛布に座り・・・しかし、隠し様もなく、全身から放たれる陰湿な匂い ー 。その目には、不安も焦燥も怒りもなく、ただ冷徹に避難者たちを監視していました。

公安Kです・・・。

避難所という囲いの中に入れられた住民たちは、情報を遮断され、余計なことを言わぬよう、勝手なことをせぬよう、パニックを起こさぬように・・・と監視されていたのです。
(この「監視担当」は、組織犯罪に関わる者たちとは、別の部署なのだと思います。)

「原発の事故は有り得ない」としていた町の行政は、避難誘導も食糧備蓄もおざなりでしたが、
住民を「管理」することには機敏だったのです。

しかし、その一方で ー 、
町の行政は、その無能ぶりをいかんなく発揮しました。
その一例を、以下に書こうと思います。

まず、この避難所には責任者という立場の人はいませんでした。
消防団員たちの姿は目に付きましたが、彼らはとくに避難者の世話をすることはなく、当然、何の指示もしませんでした。何かを質問しようにも、彼らは何も知らなかったし、答えようともしなかったのです。
原発事故という未曾有の事態においての消防団の役割は、「常駐」以外にはなかったのかも知れません。

避難者たちが、それぞれに抱えた不安や怒りや疑問をぶつけようにも、その相手は避難所にはいませんでした。

しかし・・、
D様、行政は敢えて責任者を置かなかったのかも知れません。
一人が言えば口々に ー ということにもなりかねないのですから・・・。
だとすれば、「無能」と「狡猾」が交じり合い、唾棄すべき体質だと言えます。


さて ー 、
私たちが避難所に入った翌日から、おにぎりの他に、簡単な汁物が出されるようになりました。
ボランティアの方たちと、避難者中から有志の女性たちが、付設の調理室で作ることにしたのです。
私も参加しました。

調理室に入ったのは、10人ほどでした。
ボランティアが2人、避難者の中から6,7人・・そして、役場から来たという女性。
避難所で、私が役場の職員だという人に会ったのは、このKMさんだけでした。

このKM女史が、調理室内て采配を振るったのです
(歳は40代半ばくらいでしょうか。)

有能なリーダーのもとでは、仕事が効率的に、そして和やかに進んでいくものです。
しかし、このKMさんには、リーダーシップをとる素質がありませんでした。

ある時 ー。
避難所に、菓子パンの差し入れがありました。
調理室に運ばれてきたそのパンを数えると、大小合わせて150個ほどでした。
避難者すべてに行き渡る数ではありません。

(体育館と集会所にいた避難者は250名位でした。レストランとかコテージにも避難者はいましたが、
その方たちは別なグループとなっていました。)

パンをどのように配分するか・・・私たち避難者とボランティアが4,5人集まり、知恵を出し合いました。
全員に配るには、100個ほど足りません。

「パンの大きさが様々だから、大きいものは2個として数えましょうか。そして、家族ごとに配分したらどうかな?」と、私は提案しました。

250人と言っても、家族というグループに分ければ、その数字は小さくなります。
家族員は、2人から6人ほどと様々ですが、人数に合わせて配分すればいいのです。
家族であれば、半分づつに食べることも出来ます。

それがいい・・・ということになり、私たちはまず、パンを大小に分け始めました。

そこに、KM女史がやって来たのです。
そして・・・。
「まず、消防団の人たちの分を頂きますね。」・・ と言うのでした。

そう言うなり彼女は、持ってきたポリ袋にパンを入れ始めたのです。
大きな方に分類していたロールケーキだけを19個 ー 。
私たちが唖然と見ている中、彼女は平然とそれを入れ続けたのでした。

KM女史が去った後 ー 、
私たちは、残ったパンを前に、無言でたたずんでいました。

すると、ものの数分もしないうちに・・・、
KM女史はまたやって来たのです。
「交代の人の分を忘れてました。同じ数だけ頂きますね。」
そして、またロールケーキを19個 ー 。

「被災者を優先するべきじゃないんでしょうか?」
私の口から、思わず言葉が漏れ出ました。

D様 ー 。
消防団員を優先するという、その見識が、私には理解出来なかったのです。
被災者は皆、空腹を抱えていました。高齢者も、子供も、病気がちの人もです。

KM女史は、余計なことを言うなとばかりに、私にきつい視線を向けました。
「消防団の人たちは、一生懸命やってるんですよ!」

消防団の人たちは、一生懸命やってる・・・。

D様、ボランティアの人たちは、自分たちで食料を用意して来ていました。
せめて、暖かい味噌汁でも・・・と、勧めても、彼女たちは決して口にしないのです。
民間と「官」の感覚は、これほどに違っているのでした・・。

被災者への差し入れを、まず自分たち優先で取ってしまうとは・・・。


そして ー 、
その後、KM女史は、ことごとく私を無視するようになりました。

パンは、女史の指示により、すべて小さく切り分けられました。
小さな菓子パンを更に半分にし、ラップに包んだのです。
切り口はつぶれ、中身がはみ出て・・パンは、小さく惨めなものに変貌したのでした。

小さくなった結果、パンは余りました。
調理テーブル上に十数個のパンが置かれました。

「これは、みんなで分けていいから ー 。」
KM女史は、自分の私物でも分け与えるように言うのでした。

被災者には、潰れたパンをほんの少しづつで・・・余った分は分けていい?

D様、この女史の胸ぐらを掴んで、ビンタでも張ってやったら、どんなにスーッとしたことでしょう。
ふがいなくも・・・私は、無言でその場を離れただけでした ー 。


もう一例を書きたいと思います。
2日目の夕方のことです。

調理場に若い男性が顔を出しました。手に哺乳瓶を持っています。
彼はおずおずと言うのでした。
「あの・・・赤ちゃん用のミルクはないでしょうか?」

私は、流し台の横に、粉ミルクの缶が置いてあるのを知っていました。
誰が置いたのか、未開封のままでした。ずっとそこに置いてあるということは、必要な人が使ってもいいようにと、誰かが持って来てくれたのだと思います。

「粉ミルクがありますよ。これ使ってください。今、お湯を沸かしますから ー 。」
私が応えました。男性はホッとしたように中に入って来ました。

その時、
「アッ、それ駄目よ! 手を付けないでね。」・・KM女史の声でした。

私とその男性は、同時に、彼女の方を振り向きました。
「誰のものか分からないんだから、勝手に開けちゃ駄目よ。」
私たちを見据えて、女史は言うのでした。

男性は、複雑な表情で黙っています・・。

即座に、私の言葉が出ました。
「今、お腹を空かせている赤ちゃんがいるんですよ。誰のであれ、文句を言う人はいないはずです。
それとも、持ち主探しをしましょうか?」
私はそう言うなり、かまわず缶の封を切りました。

憤然として出て行った女史が、戻って来たのは20分後くらいでした。
そして、その5分ほど後・・・消防団の服を来た男が調理場に入って来ました。

彼は、意味ありげな視線をKM女史に向けると、次に、私の方をチラリと見るのでした・・。

D様 ー。
KM女史はこの男に、ひとしきり、私のことをこき下ろして来たのでしょう。
そして、阿呆男はノコノコと、私の顔を拝みに来たというわけです。

D様、この戯け者たちに、付ける薬はないものでしょうか・・?

この調理場での体験で、書くべきことはまだあるのですが、折を見ることにします。



さて、D様 ー 。
こんな事態においてすら、私への集ストの加害行為は続けられていました。
避難所という限られた空間の中で、彼らは、出来うる限りのハラスメントにいそしんでいたのです。

私を指差し笑い出した中年女たち・・、私が廊下を歩くたびに決まって咳払いをする男、外に出るたびに、急に回り出す消防車の赤色灯、突然ライトを点けるパトカー・・、靴は置いたはずのところになく、寝ていた顔のすぐそばに汚いスリッパが置かれ・・・。

原発の町に敷かれていた卑劣なネットワークは、そのまま避難所でも機能したのです。
避難者たちの狭間には、この奸悪な者たちの腐敗臭が漂っていたのでした・・・。


思えば、避難に際しても、我が家には、何の指示も届かず、
私と夫は、何も知らないまま庭に立っていたのでした。

隣の大熊町では、一軒ごとに戸を叩いて、避難を促したとか ー 。
同じ避難指示を、富岡町の行政はどんな方法で周知させたのだろう?
指示が届かなかったのは、我が家だけではないのか・・・。
霧のような疑念が、今も私を包みます。



D様 ー 。
行政の低レベルぶりは、まだ続きます。
次回もそれを書こうと思います。



さて、D様 ー 。
私は、1週間前から、有機農法について学んでいます。
知人の紹介で、NPO法人の講座を受けることになったのです。

農業がさかんなこの地方で、職を求めるとすれば、年齢的にもこの分野が有利だと、ハローワークでも勧められました。受講は6ヶ月間で、その間はわずかですが生活費が支給されます。。
農業は初めてですが、鬱々と部屋に閉じこもるより、外の新鮮な空気を吸ってみようかと決心したのでした。

この地に来ても、組織犯罪の卑劣な加害行為は続いています。
家を留守にすれば、必ず家宅侵入の形跡が残されています。
家を留守にしたくないとは思いましたが、自分の世界を広げる方に軍配を上げました。

青空の下、クワを持つ手もたくましく・・・ということになるのでしょうか。

受講生は11名です。(この中にS会信者と思われる人がいます。)
今後の手紙に、この受講のことも触れていきたいと思っています。



D様 ー 。
季節の変わり目です。
体調に御留意くださいますよう ー 。


                            
                             2011.8.28
                                   万 留 子



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(89) 原発事故からの避難

D 様



午後の陽光が、田に降り注いでいます。
緑色の稲穂たちが暑さを謳歌しているのです。

そして・・・、
空の一角には積乱雲が立ち、その領分を広げようとしています。
でも、その企みは太陽に遮られ、夕立を望む私を失望させています。

盆が過ぎれば、季節は秋へと早足になるはず ー 。
そして、この蒸し暑さすら懐かしむ日が来るはずなのに・・・。



さて、D様 ー 。
今回の震災で、私は2日間だけ避難所の生活を経験しました。
富岡町に隣接するKW村においてです。

3月12日に、このKW村の学校や公民館などの公共施設が、急遽、避難所として開放されたのです。
村内に十数か所の避難所が設けられたといいます。
そして、これらの施設は、またたく間に、原発の町からの避難者で溢れ返ったのでした。

私と夫は、その中の「IWの里」という所に誘導されました。
村が経営する娯楽施設ですが、広い敷地内に釣りぼり用の池、遊歩道、キャンプ場、レストラン、コテージなどが造られています。体育館や集会所も併設されていて、これが避難所として使われたのでした。


まず、12日の午前10時半頃のことから ー 。

私は、自宅の敷地内に立っていました。
目の前には屋根から落ちた瓦・・・家の中は物が散乱していました。
水も電気も供給停止で、電話は不通 ー 。

私は虚脱感の中で、ぼんやりと猫を抱いていたのでした。

前夜は、車の中で休み、食べたものは缶詰のパンをひとつだけ ー 。
食料の備蓄はほとんどなく、商店やスーパーはどこも閉まっていました。

とにかく、家の中を片付けなければ ー 。
今夜はせめて家の中で寝ることにしよう・・・。

まず、家の中から始めようか・・?

私は、ドアを開けたまま、車の助手席に座っていた夫に声をかけました。
そして、抱いていた猫を降ろしました。

その時 ー。
「何をしてるんですか!? そんなところで!! 早く逃げないとダメですよ。」

軽自動車が敷地内に入って来ました。
助手席から顔を出したのは、夫の知人のMNでした。

「逃げる?」
私はキョトンとして、問い返しました。
夫が車から出て来ました。
「逃げるって・・何で?」

「原発が爆発したんですよ。もう皆、川内村の方に逃げてますよ。」
「原発が爆発?!・・・」

「俺たちも、今、逃げるところです。ここを通りがかったものだから・・とにかく、早く逃げた方がいいですよ。」
MNは、それだけ言うと行ってしまいました。

原発が爆発した・・・?
夫と私は、顔を見合わせました。 

遠くで、何かを広報するスピーカー音がしていたようだけど、このことだったのか・・。
音が遠すぎて、何を言っているのか分からなかった。
そう言えば、近隣が静か過ぎる・・・。

次の瞬間 ー。
私は、慌てて家の中に入りました。
「あなたも早くして!!」

私は、押入れからキャリーバッグを取り出し、
タオルや衣類、洗面用具、筆記用具、パソコン・・・などを詰め込みました。
そして、数枚の毛布を持ち、着古した防寒コートを羽織って車に乗り込みました。
夫も同様の用意をしたようでした。

夫が、車を発進させようとした時 ー 。
猫・・・!!

二匹の猫たちのことが頭をよぎりました。
「連れては行くのは無理だよ・・。」
夫の言葉を背に、私は車を飛び降りました。

居間に黒チビがいました。もう1匹の方は、いつもの場所にいるはずでした。
下宿棟2階の端にある物置です。日当たりがよく出入りが自由なので、猫たちのお気に入りの場所になのです。
寝床もあるし、餌も置いてありました。

私は、黒チビを抱き上げました。
「今日は物置で寝なさい。数日したら戻るからね。」

と、その時 ー 、
家全体がガタガタッと揺れました。
驚いた黒が、私の腕から飛び降り、一目散に居間から走り出て行きました。

瞬時の余震でした。
黒チビは開いていた裏口から外に行った・・・はずでした。

私はとりあえず、それで良しとして、家のドアを閉めました。
すぐ帰れるだろう・・・私は、何の根拠もなくそう思ったのでした。

しかし、猫たちのその後は・・・それは、折をみて書かせて頂きます。
(それは、私の頭から離れることはありません。)


さて ー。
私たちは、KW村へと車を走らせました。
しかし、まもなく停止せざるを得ない状況になりました。
KW村への道路には、車が殺到していたのです。まさに数珠つなぎでした。

「驚いた・・この町に、こんなに沢山の車があったの?」

私たちは、列の最後尾に付きました。
しかし、車はまったく動きません。
5,6分後にはもう、後ろにも長い列が出来たのでした。

KW村への道路は、山あいの一本道です。
舗装道ですが、片側一車線しかありません。

「これじゃ、夕方になってもKW村には着けないな・・。」
夫はそう言うなり、数珠つなぎの列を抜け出しました。
そして、原発の町へと方向転換をしたのでした。

「チョ、チョット・・どこへ行くのよ。」
「反対側から行った方が早いよ。」

夫は国道288号線を北西へ走り、反対側からKW村に入るつもりなのでした。
第一原発のある大熊町を通ることになります。

「窓を閉めておけば大丈夫・・・。」
私は、自分に言い聞かせました。

しかし、夫は・・・
第一原発に数キロの地点で、いとも簡単に、運転席の窓を全開にしたのでした。

道端に停まっていた車の運転席から、手が上がったのです。
50歳絡みの男性でした。助手席には同年輩の女性が乗っていました。御夫婦なのでしょう。

夫は車を止め、窓を開けました。
男性は、KW村へ入る道が分からないと言うのでした。

「KW村はね、あっちの方角になるんですよ。ここをもう少し行って・・」
夫は悠長に話し出すのでした。
「・・左に入る道があるので・・・」

私は、夫の言葉をさえぎり、
「私たちも行きますので、後を付いて来て下さい!」
と、叫びました・・・。

「今、それを言うところだったんだよ。」
走り出すなり、夫は言うのでした。

2台の車は山道を30~40分走り、KW村に入りました。
そしてまもなく、道路に立っていた係員に「IWの里」に誘導されたのです。

駐車場には、すでに多くの車が停められていました。
そして、私たちの後ろからも次々と入って来るのでした。

私は、車を降りあたりを見回しました。
ここには、以前、釣り堀に来たことがありました。
林に囲まれた、静かで長閑なところでした。

しかし、その様相は一変していました。
敷地内は人が行きかい、消防車やパトカーも停まっているのが見えました。
避難者たちは、それぞれ荷物を持ち、建物の方に歩いていました。

私は、車のトランクから荷物を降ろしました。
私はこの時、太平洋沿岸で津波による大災害があったことは、全く知りませんでした。
原発事故の内容ですら何も・・・。


D様 ー。
私と夫は、この「IWの里」に2泊しました。
その短い間に痛切に感じたことは、町の行政の「お粗末さ」でした。
そもそも避難指示が、私たちには届かなかったのですから・・・。
通りかかった知人に教えて貰わなかったら、私たちの避難はずっと遅れていたはずです。


地震発生から、原発が爆発するまでの経緯を以下に書いてみます。

  <3月11日> 
  2:46pm   地震発生(福島第一、第二原発が自動停止)
  3:20pm   東北の太平洋沿岸を巨大な津波が襲う。
  3:42pm   福島第一原発 非常用ディーゼル発電機が使用不能となる。
  4:36pm   第一原発1号機と2号機で「緊急炉心冷却装置」の注水が不能となる。
  8:50pm   第一原発の半径3キロ圏内の住民に避難指示が出される。
           同10キロ圏内に屋外退避の指示。
  9:55pm   東電が、第一原発の原子炉の水位を確認できないと発表。


  <3月12日>   
   0:15am   第一原発の近隣住民の避難開始。
           (1:45分 3キロ圏内住民の避難完了) 
   1:57am   第一原発1号機のタービン建屋内で放射能レベルが上昇。
   5:22am   第一原発1号機が圧力抑制機能を喪失。 
   5:32am     〃  2号機が   〃    。
   5:44am   管首相が、第一原発の半径10キロ圏内の住民5万人に、避難指示。       
   6:00am   原子力保安院が、第一原発1号機の中央制御室で通常の1000倍  
            の放射線量が計測されたと発表
   
   6:07am   第二原発4号機が圧力抑制機能を喪失
   7:40am   第二原発1号,2号,4号機が冷却機能を喪失   
   7:45am   第二原発に緊急事態を宣言 半径3キロ圏内の住民に避難指示、
            10キロ圏内に屋内退避指示が出される   
   8:03am   第二原発のすべての炉で蒸気を放出する準備に入る
   
   9:10am   第一原発の正門近くの放射線量が、通常の70倍以上となる
  10:17am   第一原発1号機でベント開始。
            ※ベントとは水素爆発を防ぐため、格納容器内の水蒸気を外部に 
             放出すること。当然、放射性物質も放出される。
  
  11:20am   第一原発1号機の燃料棒が、最大90センチ露出したことを示す数   
            値がでる。炉心溶融が起きた可能性が大となる。
   2:00pm   第一原発1号機の周辺でセシウムが検出される。
   3:30pm   第一原発1号機のベントに成功したと発表される。  
  
    3:36pm   第一原発1号機が水素爆発。
            建屋が白煙を吹き上げ、作業員4名が負傷。
   
   4:17pm   原発の敷地境界付近の放射線量が、500マイクロシーベルトを超
           える。
   5:39pm   第二原発の半径10キロ圏内の住民に避難指示が出される。
   6:25pm   第一原発の半径20キロ圏内の住民に避難指示が出される。

   7:04pm   第一原発1号機に海水の注入を開始する。


  <3月13日>
   8:41am   第一原発3号機のベントを開始。
  12:00pm頃  第一原発3号機の圧力が、再び上がり始める。
  12:55pm   燃料棒の上部が冷却水から露出する。
   1:12pm    第一原発3号機の原子炉に海水を注入。  
   3:28pm   枝野長官が、第一原発3号機の水素爆発の可能性を示唆。


<3月14日>
   6:22pm   第一原発3号機が水素爆発。
           (この3号機は、MOX燃料を使用していた。)

                         ※参考資料:「東日本大震災」(毎日新聞社)



原発事故に関するこれらの時系列を見ると、
地震当日の11日にはもう、第一原発の近隣住民に対し、避難と屋内退避の指示が出されています。
そして、3キロ圏内の住民が避難を開始したのは、深夜の午前0時15分でした。(12日)

さらに、12日の午前7時45分には、
第二原発の近隣住民にも、避難と屋内退避の指示が出されています。


D様 ー 。
我が家は、第一原発の10キロ圏内にあります。
そして、第二原発からは3キロほどしか離れていません。

・・にも関わらず、私と夫は事故のことを知らずに、無防備に敷地内に立っていたのでした。
たまたま通りかかった知人から、原発に事故が起きたことと、住民たちがとっくに避難を開始している事実を教えられたのです。12日の午前10時過ぎでした。

(遠くで何かを言ってるスピーカ音がしましたが、内容はまったく聞き取れませんでした。
その音が我が家に近づいて来ることはなかったし、断水とか、電気の不通の広報だろうと、気にすることはなかったのです。)

原発事故という重大な事態に際し、町の行政はこの程度の「仕事」しかしなかったのです。
そして、この行政のお粗末さは、避難所となった「IWの里」においても発揮されました。

D様、それを次回の手紙に書きたいと思います。



D様 ー 。
今日は、終戦記念日です。
66年が経っても尚、この国の戦争の傷は癒えていないようです。

その記憶は、体験者を慟哭させ、憤激させ、寡黙にさせ・・・。
そして、あの戦争はなんだったのか ー と問わせ続けています。

どんな戦争も、その傷が癒える日など来ないのかも知れません。
この地球上から、戦禍がなくなることを願って止みません。



朝晩の空気に、微かな秋の香りを感じるようになりました。
盆が過ぎれば、明け方の冷気が体を冷やすことがあるやも知れません。
どうか御自愛くださいますよう ー 。




                        2011.8.15
                               万 留 子



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